フレンチトースト訴訟

父ちゃん大法廷に立つ(計画)



租税法には違憲判決がでない理由

下に貼り付けた講演文書に答えが書いてあります。

 

こういうのを読むと、三権分立って、なんだっけ的な気分になりますね。

 

裁判官が後味の悪い思いをするのは、自分の正義を貫けなかったからなのではないでしょうか?何か目に見えないチカラが働いているのですね。

 

「統治する側にとって三権分立とは、民衆の反発を分散し、責任をたらい回しにする道具である。」って、うちの亀さん(推定8才、名前はまだない)も言ってます。

 

 

 

 

伊藤 正己 元裁判官の講演「憲法裁判について」(租税法学会創設20周年記念講演。平成4年)

「裁判所に在官当時、かなりの数の税法事件を処理いたしました。(中略)しかし思い出してみますと、税法事件はそういう簡単なものはほとんどないと言っても差し支えないのでありまして、場合によりましては何回も合議を重ねる、というような事件が多かったので、それだけ税法事件というのは難しかったということが言えるのです。(中略)しかし、他方でいやな事件が来ると、これはほかの(自分が担当している第三小法廷以外の)小法廷に行けばよいのにな、などと思うこともあるのですが、調査官がやってまいりまして、第三小法廷にこういう税法事件がまいりました、伊藤裁判官がそのご主任ですといわれると、もうガックリするのでありまして、いやだなあ、という感じを持つわけであります。これはほかの人に聞いても、税法事件が来ると、だいたい嫌だなあという感じを持つわけであります。それには、いくつかの理由があるような気がいたします。

 まず第一に税法に対する知識が少なく、あまり勉強していないということです。したがって、税法事件の、しかも込み入った事件が来ますと、改めて勉強しなければならず、六十歳を過ぎてから新しい勉強というのは大変つらいわけでございまして、それだけでも圧迫感があるわけです。

 そして、勉強を始めるわけですけれども、税法の法規というのは非常にわかりにくいのでございました。憲法などにくらべれば、はるかにわかりにくいのです。(中略)私は退官まで税法事件というのは難しいなあ、という感じを免れられなかったのです。だから、いやだという風に感じたのでございます

第二番目にいやな感じを持つ理由は、税法というのは大変技術性を持っており、しかも、形式的合理性が非常に求められる領域である点にあるのではないかと思います。さらにその上に立って、膨大な税務行政の実務が乗っかっているのでございます。しかし、納税者の権利というものを考えますと、そう簡単に技術的な考えで割り切れるか、という感じを持つのでありまして、したがってそういう租税業務の実務についても、解釈上これでいいのか、別の解釈ができるのではないか、という風に迷うことがあるのです。

 しかし、裁判所というのは、これは違憲審査のところでまた申すかもしれませんが、実務で長く行われていることを覆すということに対しては、慎重というか、臆病でございます。殊に、最高裁がいままでの実務をひっくり返すような解釈を出しますと、日本の税務行政は大変なことになる。そこで、何とか苦労して税務行政のやっている実務を容認しようとする考えが出てきます。不満があれば、こういうことは望ましくない、ぐらいのことは言えますけれども、まあ認めておこうか、ということになり、これは行政寄りと批判されるのですが、行政寄りということだけではなくて、そういう慎重な判断になりがちです。そしてこういう処理が、当事者である納税者にとって不利だったとしても、全体の納税者を考えると、公平な処理にはかなっているのではないか、というようなことも考えられます。そこで、税法事件をやった後は、すっきりしない感じが残り、あまり後味がよくない、というのがまた一つのいやな原因かと思います。

 第三は、裁判官的感覚なのですが、これは税法の専門の方から間違っているといわれるかもしれませんけれども、どうも実体法も手続法も、税を取る側に有利にできているのではないか、という感じをしばしば持つのでございます。税金はともかく取るのだ、というふうな考え方がどうも現れております。納税者がこれを逃げるのはけしからん、というような感じでこれを抑えることになっています。ですから、これを法解釈でこれを変えるというのはなかなか困難です。もう法律でそう決められるということになって、これは仕方ない、裁判所ではどうにもならない、というような場合が多いのでありまして、これは、全体として納税者の公平な取り扱いには役立っているのかもしれませんが、具体的事件の納税者にとっては酷ではないかと思われることも少なくありません。それがまた、いやだという感じを持たせるわけであります。最高裁の裁判官の中にも、ただでさえ徴税側に有利になっている法令を、さらに有利に解釈する、というような人がいるわけで、これは租税行政の実務の安定性を非常に尊重されるというのかもしれませんが、それでいいだろうかという感じが残るのであります。(中略)

 最後の第五になりますが、租税法律主義というのは非常に立派な原則だと思いますが、それにしたがって、税法の規定は大変詳細であります。しかし、詳細を税法で決めることについて、非常に立法裁量が広い、という感じを持つわけであります。納税者にとってかなり不利益なことであっても、裁量の範囲内である、立法政策の是非の問題だというわけであります。裁判所はそこまで入り込めない、望ましいやり方ではないと言っても、これは政策上の問題で、違法、違憲とはならない、という考えが出てくるのでありまして、常にその壁にぶつかるのであります。大島訴訟とか、あるいは総評の出したサラリーマン税金訴訟について、税法学者の方にはいろいろな異論があるかと思いますが、なかなか憲法論がそこまですっきり入っていかないということです。平等権ならいいではないかというのですが、平等権の場合にも、憲法の平等権というのは形式的平等で、実質的平等に入らないものですから、それで違憲ということが非常に難しいのです。(中略)

 どうも裁判所では限界があると感じられ、これも後味がわるいことが多くていやだなあと感じた理由でございます。

(以下略)